風のいざない 第24話 「立つ鳥跡を濁さず」      五島朋幸(新宿区)

秋田さださんは92歳。10年以上前から近所のデイサービスセンターに通っており、認知症はあるものの人気者のおばあちゃん。何でもはっきりものを言うので、最初は利用者仲間からも、職員からも少し敬遠されていたが、その裏表のない性格が皆に分かると一気にスターヘ。

僕が訪問したのはちょうど1年前。入れ歯が浮き上がり食べづらそうだと、一緒に暮らしている息子の義明さんから依頼があった。最初の訪間の時、さださんの第一声は、

「なんだぁ、おめぇ。何するんだよ」

なかなかの先制パンチにちょっとたじろぐと、義明さんが

「今日は元気だね」

それでも診療に関しては協力的で、大きな間題はなかった。ただ、5分に1度は、

「なんだぁ、おめぇ。何するんだ!」

入れ歯の調整白体は数回で終了し、栄蓑状態のチェックや入れ歯の確認に3カ月に1度訪間するようになった。そんなある日、義明さんから連絡が入った。入れ歯が少し欠けてしまったということと、今度、郊外の老人ホームヘ入居が決まったということ。

最後の訪間日、いつものようにドアベルを鳴らすと、すぐにドアが開き義明さんが出てきた。決して大きな玄関ではないが、多くの靴が置いてあり、僕の靴を置く隙間もない。中に入ると人がいっぱい。

義明さんが‘

「姉夫婦と妹です」

と紹介してくれた。4畳半ほどの部屋にテーブル、さださん、義明さん、そしてゲストの3人、さらに僕。まさにすし詰め状態。僕はさださんの隣の席に座ったが、皆さんは立ち見。

「秋田さん、入れ歯はどうでしたか?」とたずねると、「なんだぁ、おめぇ」なんていつもの言葉はなく、やさしい目で

「遠いところ、よう来たねぇ」

そのひと言だけて、不覚にも目頭が熱くなってしまった。さださんの後ろに立っていた義明さんが下の総入れ歯を外し、「ここなんです」と欠けてしまった部分を見せてくれた。そこは以訓補修したプラスチックの場所で、2ミリほど段差ができてしまい、とがっていた。さっそく段差をなくすように削り、全体を磨く作業に入った。立ち見からの視線は痛いが、決して難しい作業ではないのでスムースに進む。途中、さださんが

「悪いねえ、こんな遠くまで来てもらって。寒くねぇか」

などと気遣ってくださる。

「秋田さん、ありがとうございます。でも秋田さんらしくないなぁ」

「なんだぁ、おめぇ」

「そうそう、秋田さんはそうでなくっちゃ!」

と言うと、義明さんも皆さんも大爆笑。

「さ、秋田さん、できましたよ。この入れ歯は、またまだ使えますからね。しっかり食べて元気でいてくださいね」

と言って、お口に戻した。義明さんが、

「先生、長い間ありがとうございました。母がこんなに元気になったのは先生のおかげてず。最初に来ていただいた時は、どんどん痩せていった時期でしたから」

「いえいえ、お母様のポテンシャルが高かったんですよ。また、何かできるごとがあったらお声がけください」

と言って荷物をまとめ、秋田さんに最後のご挨拶。

「秋田さん、お元気でいてくださいね」と言って右手をとり握手。すると秋田さんが、とびきりやさしい顔で、

「ありがとう、感謝しとるよ」

外に出た時、一瞬、風が吹いた。別れはいつも寂しい。