風のいざない 第23話  「魔法」     五島朋幸(新宿区)

石川和子さんは有料老人ホームに入居している。ひとり息子の靖男さんは地方に住んでおり、ご主人を亡くされた和子さんはひとりになってしまい、老人ホームに入居された。先日入院された時、靖男さんも上京され、担当医から胃ろうにしたほうが良いと言われてしまい、何とか口から食べてほしいという気持ちから僕たちの元へ依頼があった。

立派な建物の老人ホームに入るとエントランス脇にカウンターがあり、女性の案内係がいた。石川さんのお名前を出すと2階に上がるよう指示された。エレベーターのほうに向かうと、案内から2階の方へ連絡をしているようだった。

エレベーターのドアが開くと、そこには若い男性と少し年配の女性が待っていてくれた。女性の方から、

「歯医者さんですか。看護師の山本です。こちら居室担当の野田です」

僕のほうもよろしくお願いしますと頭を下げた。さっそく山本さんが、「こちらです」と言って部屋まで案内してくれた。

お部屋は6畳ほどの部屋に電動ベッド、机、棚が入っており、棚の上には大きな薄型テレビが置いてあった。和子さんは車いすに座っており、ベッドに靖男さんが腰かけていた。僕はまず和子さんに挨拶をしたが、下を向いたまま反応はなかった。改めて靖男さんにも挨拶をした。

「母はまあこんな調子なんですけどねぇ、認知症だなんて。ただ、食べられることは食べられるんですよ。なんか方法はないでしょうか」

母親思いの靖男さんの優しさを感じる話しっぷりだった。さっそく、お口の中を拝見することにした。

上顎の前歯部に3本、下顎は両側の犬歯が残っており、上下とも部分入れ歯が装着してあった。ただ、食べかすも残り、衛生的とはいえない。さっそく、上下の部分入れ歯を外すと野田君が「おっ」と声を発し、山本さんと顔を見合わせていた。僕はその様子を少し気にしながらも入れ歯を洗面台に置き、残った歯の観察。多少揺れている歯もあるけれど、今、何かをする必要はなさそうだ。まずは口腔ケアをということで、和子さんの歯ブラシを借りてブラッシング。いたって普通だったのでブラッシングをしていたが、冷静な顔の靖男さんとは対照的な山本さんと野田君の普通でない表情。「うん?」と僕が野田君のほうを見ると、

「先生、石川さんはいつも口をつぐんじゃって、まったく口腔ケアできないんですよ。入れ歯だってほとんど外せないくらいなんですから…」

「えっ、そうなの?」

僕は改めて和子さんの顔を見るが、どこ吹く風。靖男さんはちょっと複雑な表情。

口腔内を清潔にし、きれいに洗った入れ歯を装着し、今度はフードテスト。僕が持参したゼリーをティースプーンですくい、ゆっくり口元に持っていくと、唇をすぼませ、すでに臨戦態勢。口は開けて欲しかったが、口の中にゼリーを入れるとすぐにモグモグモグモグ、そしてゴックン。野田君は若者らしく、「はやっ!」とひと言。僕はもうひと口スプーンで持っていくと同じように唇をすぼませ、ゼリーを含むとモグモグゴックン。

靖男さんが身を乗り出して、「どうですか」と言って僕を見る。

「よく調べてみないとわかりませんが、今の状況だけみると嚥下機能は高く維持されていますし、食べ物の形態などを考えれば、口から食べられると思いますよ」

野田君が、

「先生、石川さんがこんなにしっかり飲み込むのを見たことないですよ。何したんですか?魔法でもかけたんですか」

僕は笑いながら

「石川さんは、だれが歯医者か、よく分かってらっしゃるということだよ」

靖男さんも笑顔になった。