風のいざない 第11話  「ハーレム」      五島朋幸(新宿区)

山根秀子さんは、総入れ歯の調子が悪く3カ月前から訪問している。山根さんは御主人の治夫さんとふたり暮らし。秀子さんは脳梗塞を発症したのち、麻痺は残らなかったものの、ほとんど歩くことができなくなり、5歩進むのに3分以上かかってしまう。普段はテレビ正面の大きめのマッサージチェアに腰掛け、女王様のように君臨している。治夫さんの定位置は秀子さんのチェアと直角に位置する3人掛けソファのもっとも秀子さん寄り。僕は秀子さんの右隣りで治療をする。ここは僕の定位置。

治療のほうは順調に進んでいる。旧義歯の修理で落ち着かせ、新義歯を製作。その義歯も徐々に落ち着き、少し間隔をあけて様子をみることになった。

2週間ぶりの訪問。いつものようにドアベルを押すが反応がない。いつもなら治夫さんが出てきてくれるのだが、1分ほどしても反応がない。もう1度ドアベルを鳴らすも反応がない。仕方なくドアを叩いてみると、かすかに秀子さんの声がする。

「ちょっと待ってください」

それから2分ほどしてカチャッという音がして鍵が開いた。僕がドアを開けると、予想通り秀子さんが立っている。すぐに

「大丈夫ですか!」

と声をかけると、

「お父さんが帰ってこないのよ。どうしようかしら」

と気弱な声。ゆっくりゆっくり定位置のマッサージチェアに腰をかけたのはそれから3分後。秀子さんがチェアの横に置いてあった携帯を手に取り、治夫さんに電話をかける。

「お父さん、先生が来られているわよ。…そうよ、予定は3時だもの。もう3時でしょう…」

電話の向こうで治夫さんが謝る声がする。「もういいわよ。お財布はどこにあるの。わかったわかった。もういいわよ…」

いつもは温和な秀子さんの不機嫌な声、治夫さんには相当なダメージだろう。

「お父さん、昼はいつも喫茶店に行っちゃうのよ。すぐ下なんだけどね。毎日入り浸っちゃって。まったく」

と不機嫌さは変わらない。

さて、入れ歯のほうはと話を戻すと、

「先生、大分いいわ。食事をしていてほとんど気にならなくなったわ。よっぽど硬いものを噛むと左下が少し痛いけど、これくらいしょうがないでしょ」

「まあ、一度噛み合わせはチェックしましょうね。でも良くなりましたね」

そういうと、いつものように咬合紙をバッグから取り出した。

ひと通りのチェックを終えると秀子さんにこのまま使用してもらい、問題が発生するようだったら連絡してもらうように伝えた。

「あら、寂しいわね」

会計も無事終わり、荷物を整え、山根さんのお宅から次のお宅へと移動する。途中で治夫さんが行ったという喫茶店もあるので、もしタイミングが合うようだったら挨拶しようと考えた。いろいろとお世話になったし。

さて、治夫さんは…探すまでもなかった。喫茶店の店頭に置かれた3人掛けのイスの中央に陣取り、両脇にはかつての美女たち。

ふたりの女性に囲まれた治夫さんは、自宅でも見たことのないほどの満面の笑み。まさに至福の時を謳歌している最中だった。これじゃあ時間も忘れるよなぁ。

僕は声をかけることもなく、ハーレムを後にした。