風のいざない 第10話 「至福の一言」      五島朋幸(新宿区)

梅田ミチさんは、以前から義歯の調整にうかがっていた方だ。しかし、90歳の誕生日の日に脳梗塞を発症し、3カ月後に退院をされた。それから2カ月ほどしてから娘の恵子さんから連絡をいただき、再び訪問することになった。

久々に梅田さんのお宅に到着し呼び鈴を鳴らすと、恵子さんがいつものように笑顔で迎えてくださった。しかし、

「先生、ご無沙汰しております。母を見て驚かないでくださいね」

こちらも一応の覚悟はしてきたのだが、少し不安になる。ミチさんの部屋に行くと、以前は車椅子に座っておられたのだが、ベッドに横たわり、人相も大分変わっていた。鼻には酸素マスク、そして胃ろうも造設されている。僕はミチさんの手を握り、

「梅田さん、ご無沙汰しております。歯医者です」

と言うと、かなりしっかりとした表情でこちらを見てうんうんとうなずかれた。

恵子さんによると、脳梗塞後も体調は悪く、病院から退院許可が出なかったけれど、在宅主治医の先生にお願いをして、無理して退院してきたとのこと。その後も体調が悪く、生死をさまよったけれど、最近ようやく調子が良くなり、口から食べてほしいということから僕に依頼があったのだ。

もともとは上下の総義歯を装着していたが、入院中に外したままで現在は全く使用していない。そこで、嚥下のチェックをすることにした。意識もしっかりしているミチさんに、

「つばを1回、ゴクッと飲んでもらえますか」

と耳元で叫んだ。するとほどなく、自分のつばをごくっと飲む。のどの動きも悪くない。いや、驚くほどスムーズで力強い。今度は、恵子さんにお願いをしてとろみ剤を入れたお茶を用意してもらった。そして声をかけながら、ティースプーン1杯ほどのお茶を口に流し込んだ。これも力強く飲み込み、最後は「プハーッ」と息を吐いた。その姿に恵子さんも僕も思わず笑顔。

結局、飲み込みの力はまずまず期待できるので、日常の口腔ケアをしっかりしていただくこと、そして冷たいスプーンで口腔内を刺激する方法などを恵子さんにお願いした。

1週間後に訪問した時は顔色も良く、意識もしっかりされていた。恵子さんも

「最近よくしゃべるんですよ、何を言っているかはよく聞き取れないんですけれど」

「それはいい兆候じゃないですか。楽しみですよ」

氷水を用意してもらい、粘膜用ブラシで口腔ケア始めた。冷たい刺激にミチさんは少し顔をしかめたが、これも1つの良い兆候。そして僕はバックから嚥下用のゼリーを取り出した。今までの動きを見てきてゼリーを食べられると確信してはいるが、初めてのひと口はいつも緊張する。そこは悟られないように、ゼリーをティースプーンに乗せ、ゆっくりと口の中に運ぶ。それから唇をしっかりと閉じてもらい、そのままゆっくりとスプーンを引き抜く。するとすぐに、下顎が動き出し、10秒もしないうちにゴックン。それからもう10秒くらい様子を見ていたが、むせもしないし呼吸が変わることもない。心配そうに僕を見ていた恵子さんに、「しっかり飲み込めましたねぇ~、スゴイ」と言うと満面の笑み。まさにその時ミチさんが、

「ウンメ~!」

大爆笑。