風のいざない 第8話 「食卓」      五島朋幸(新宿区)

日比野貞子さんは肺がんである。元からやせ気味だったという体は、今や体重20キロ台。義歯も合わなくなり、半年前からは上下とも総義歯を外し、入院中からペースト食だった。そんな時、息子の彰さんからの依頼で訪問診療にうかがった。

貞子さんはリビングの椅子に腰かけ、鼻用チューブで酸素吸入し、うつむいていた。息子さんが見せてくれたのはなかなか年代物の上下金属床。

「日比野さん、入れ歯、大分使いましたね」と言うとう、つむいたまま小さな声で

「はぁ」

それ以上の言葉はなかった。さっそく上顎の義歯を装着してみると、ゆるいことは確かだけど、何とか落ちずに着いている。上を取り出し、下を装着してみると、どこに収めていいのかわからないくらい不適合になっている。そこでティッシュコンディショナーを取り出し、上顎は少し柔らかめ、下顎はとにかく硬めに練って大量に盛り上げ、口腔内に挿入した。硬化したところで取り出してみると、下顎はかなりの厚みになってしまったが、装着時に安定するようになった。まずはこれを使って、不具合は次回調整することを伝えた。

2回目に訪問した時、彰さんが真っ先に玄関まで迎えに来てくれた。

「先生、ごめんなさい、まだ食事中なんですよ。どうしましょう」

「それは良かった。ぜひ拝見させてください」

「そうですか。いいんですか?それでしたらどうぞ」

「ところで入れ歯の調子はどうですか」

するとそばにいた女性が、

「お姉さん、すごく食べるようになったんですよ」

さっそくリビングに行くと、貞子さんは椅子に深く腰掛け、足元に電話帳を置き食事の真っ最中。鼻には酸素吸入用チューブが入っているものの、右手にはスプーン、食卓にはカレーとサラダが並んでいる。貞子さんの横に座り、じっと見ていてもスプーンのペースは変わらない。僕が横に来たことに気付いていないかのように、お皿からカレーを取り、うつむき加減ながら口に入れていく。唇でしっかり取り、スプーンを引き抜く。それからしっかり咀嚼してゆっくりゴックン。多少飲み込みづらいのか、ひと口を2回くらいに分けて飲み込んでいる。

彰さんに、「酸素はどうなんですか?」とたずねると、

「普段は毎分2リッターなんですが、食事中は3リッターにしてるんです」

「食事の後、息苦しくなりませんか?」

「大丈夫です」

すると貞子さんの妹さんが、

「でもすごいわねぇ。入れ歯を入れると、こんなに食べられるようになるのねぇ。本当にびっくりしたわ。最近ではほとんど私たちと同じもの食べているんですよ」

「本当ですか。すごいですねぇ。1回のお食事は何分くらいですか?」

「30分くらいかしら。もっと早い時もあるんですよ。」

「それならいいですね。長くかかりすぎると飲み込みの事故が起こりやすいので注意してくださいね」

「分かりました」

そんな会話を聞いて、知ってか知らずか、貞子さんは最後のひと口をそっと口に入れた。