戦後80年 伝えたい記憶、戦時の記録―下―

戦後80年 伝えたい記憶、戦時の記録―下―

1945年8月15日、先の大戦が終わり、今年80回目の夏を迎えた。戦前生まれの世代が高齢化していく中で、戦時経験が語り継がれる機会は少なくなっている。

残された時間でいかに後世に語り継いでいくか―。本企画では、会員から寄せられたご本人や家族の戦争体験を投稿いただいた。8月15日に続き、2氏の原稿を掲載する。

◆満州から中央区へ 情熱と自信/藤本 浩平(56歳)

私の家は代々歯科医の家系で、私は祖父の代から数えると3代目となります。祖父は歯科医師として九州歯科大学大学院を卒業後、昭和10年代に満州に渡り、奉天(現在の瀋陽)にて家庭を持ち、現地にて歯科医として終戦まで過ごしました。日本から満州に移民が行われた背景には、昭和7年(1932年)の満州国建国がありました。満州国での資源開発、都市建設は日本の国家的政策の一環として行われました。この為、都市や鉄道沿線のインフラ整備に伴う医療従事者の需要に応えるべく日本政府と南満州鉄道(満鉄)は高額な給与、住居の提供、家族帯同などの便宜を図り、医療従事者を優遇して満州に招致、祖父も歯科衛生の教育を受けた若き歯科医として、九州から大陸に渡りました。

家庭的にも祖父は地方出身の次男であり、地理的に比較的近い満州を新天地として希望を持って捉えていたのではないかと思います。祖父は歯科部門を持つ南満州鉄道奉天病院に勤務しておりました。奉天は拠点都市で、満鉄病院は日本の大学病院並みの設備を備える満鉄の主要病院でした。

祖父は日本人、中国人双方の歯科医療を担っておりました。このような環境の中で祖父は結婚し、昭和14年に父が生まれました。豊かな家庭生活を送っていたものの、4人兄弟の長男であった父親と姉以外の兄妹たちは、幼い時期に亡くなっています。昭和20年(1945年)の敗戦後、ソ連軍の侵攻による、中国東北部の混乱の中、家族4人で逃げるように引き揚げ船を目指し、やっとの思いで九州に戻ってきました。逃げる道のりで敵兵から金品を奪われた話を、祖父がしていたのを覚えております。

帰国後、祖父は小倉、戸畑にて歯科医院を開業し、日本での生活が始まりました。6歳で帰国した父も九州歯科大学を卒業し、大学院教育の後、親子二人で診療室を営んでいました。父は当時から海外志向が強く、1970年代にかけて、若い歯科医の一人としてアメリカで最新の歯科医療を学ぶために渡米。インディアナ大学補綴科大学院に入学しました。大学院卒業後、フロリダ大学補綴科で教鞭をとった後、日本に帰国。やがて、東京都中央区にて開業、藤本補綴臨床研修会を通して多くの日本の臨床家に対して咬合理論、補綴治療に関する教育を行ってきました。

当時6歳だった私も、父親のアメリカ時代に現地の教育を受け、東京歯科大学卒業後、ワシントン大学歯周病科大学院に進み、卒業後は臨床教授として3年勤務した後に帰国、父親の診療と研修会活動を支えました。現在24歳になる我が家の愚息も4代目の歯科医になる予定であります。

満州での戦中、日本での厳しい戦後、高度成長時代を歯科医として懸命に生きた祖父と父親、バブル経済の繁栄と衰退の1990年代、コロナ禍の混乱を経て今に至る私、大きな変革期を迎えている歯科医療の環境の中、生きて行く4代目に、社会からどのような歯科医療を求められるのか見守ってゆきたい。誇りを持って歯科医として活躍した祖父、父親と同様に4代目にも歯科医療を情熱と自信を持って取り組む歯科医として活躍することを願っております。

◆父のうた声/吉田 真理(76歳)

父は、戦争のことを話しませんでしたので私には分かりませんが、この写真を見ますと何も言葉が出ません。陸軍軍医(中尉)として戦地に赴いた父。当時の現地を調べてみますと、激戦地となっており、多くの人が命を失 ったようです。

戦地では、生きて帰国できるかわからない状況で、遥か離れた故郷や父母のことを偲んでいたのではないでしょうか。私の記憶にありますのは、父が「ブンガワンソロ 清き流れ」と口ずさんでいたことです。インドネシアにある大河を歌った曲で、ゆったりした美しいメロディーは人の心を癒してくれ、今も多くの人々に愛されているようです。

父のことを想いますと涙が出てきます。現在、戦争をしている国があり、そこでは多くの尊い命が失われます。ちょうど今年は戦後80年にあたります。恒久平和な世界であってほしいと思います。