第10回 「患者負担無料化」に関する効果とコスト考

医療従事者と社会保障政策研究者の見解】

日本では、保険診療を受診する際、患者さんが窓口負担を支払う仕組みを採用しています。 この窓口負担を軽減すれば、経済的理由による受診抑制がなくなり、健康格差が是正されるはずだ、との考え方があります。今回は、この効果と、そうした「患者負担無料化」のコストを誰が支払うのか、などについて考えてみます。

◆患者負担無料化と予防意識の関係

東京歯科保険医協会では、小児の患者負担がない東京23区と、一部負担のある多摩地域での口腔の健康状態を比較。患者負担がない23区のほうが健康の度合いが高いことを示唆しました(2018年発表)。

このように、患者負担を軽減、またはゼロ負担にすることが望ましいという考え方が医療従事者の間に多く見られますが、社会保障政策の研究者からは、疑問の声が呈されることがあります。例えば、慶応大学総合政策学部教授(政策科学)で、元中医協委員の印南一路氏は、「患者負担軽減策は良いが、ゼロ負担はバラマキに過ぎず、健康増進に寄与しない」と批判しており、一定の支持を得ています。

窓口負担の軽減が受診抑制を緩和する一方で、完全に「タダ」にしてしまうと、健康づくり、予防への動機づけがなくなってしまうことも事実のようです。実際、23区内の子どもが歯科受診する際、まったくお金を持ってこない場合も少なくなく、TBIで推奨する歯ブラシを購入させることもできないという話を聞きました。

歯科診療所側では、窓口負担に関係なく診療報酬単価は変わりませんから、予防を徹底しなくても収益面では困りません。そのため、「また、悪くなったら来てください」で済ませてしまう歯科診療所が多くなるのではないかという懸念があります。

京都市では、小児へのむし歯治療(=予防ではない)の無料化が早くから実施されていますが、当初から「予防へのインセンティブが弱まる」という批判が見られました。

◆予防コストを診療所が負担

実は、無料化と予防への動機づけを両立させるために、「むし歯になったら、歯科診療所が損をする」というシステムを採用している国があります。

スウェーデンは、未成年(対象年齢は23歳まで/2019年から)の歯科の自己負担が無料ですが、そのコストの大半は歯科診療所が担っている構造です。ストックホルム市開業のヘーク・利香氏によれば、「地域住民の保健医療に責任を持つランスティンゲット(県に相当)から、子ども1人について人頭割りで歯科診療所に払われる健診料(約1万円)が、小児の診療報酬のすべて」とのことです。

この費用の範囲で詳細な定期健診を行い、もし、受け持ちの子どもが歯科疾患を発症したら、治療費は診療所の持ち出しとされています。健診だけでも年間1万円でペイできるとは思えませんが、むし歯治療が必要になれば大変な損失になります。時折、「スウェーデンの歯科医師は予防に熱心で」などといわれますが、そうしなければ大赤字になってしまうのです。

このように、「誰がコストを負担するのか」によって、制度の在り方が大きく変わることがあります。

 

【略 歴】水谷惟紗久(みずたに・いさく): 株式会社日本歯科新聞社『アポロニア21 』編集長。1969年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。慶応義塾大学大学院修了(文学修士)。早大大学院修了(社会科学修士)。社団法人北里研究所研究員(医史学研究部)を経て、1999 年より現職。著書に「18世紀イギリスのデンティスト」(日本歯科新聞社、2010年)など。2017年大阪歯科大学客員教授。2018年末、下咽頭がんにより声を失う。